
どんな話?
Aさんはミシン会社であるシンガー・ソーイング・メシーン社の西日本総責任者。ところが、自分や部下の旅費などでつじつまが合わない疑惑や、競合他社に転職するつもりであることが会社に分かってしまいました。
それでAさんは会社を辞める約束をしたときに「いかなる性質の請求権も有しません」という内容の確認書を会社と取り交わしました。当然、会社側はその確認書に基づいて退職金を支給しませんでした。
ところがAさんは、「あの確認書は、旅費や経費は精算したので、これ以上は要りませんという趣旨であって、退職金までもらわないと言った覚えはない!賃金たる退職金は全額本人に支払われるべきだ!」として、会社を訴えました。
争点
Aさんが会社と交わした確認書が退職金の放棄を指したものなのか、また労働基準法の全額払いの原則にてらして、どう解釈すべきかが争われました。
第一審はAさんが勝訴。しかし第二審は、退職時に行ったAさんの確認書は、誰が読んでも1円ももらえないと解釈できるものであり、また英語ペラペラのAさんが直接、会社の外国人社長と英語で交わしたものだから、会社の圧力によるものとは考えにくい。労働者の自由な意思で行われたこの確認書は、相殺禁止を定めた全額払いの原則には反しないとして有効だと認定し、会社側が逆転勝訴。
この判決を不服としたAさんが上告しました。
判決は?
最高裁は、全額払いの原則に反しないためには、
(1)退職金は要りませんよという意思表示が、労働者の自由な意思に基づいていること
(2)自由な意志であると証明できる合理的な理由が客観的にあること
が必要だとしました。
その上で、この確認書は、たしかにAさんの自由意志に基づいたものだ、として有効と判断。Aさんの上告を棄却。会社側の勝訴が確定しました。
なお、この判決には、色川幸太郎裁判官による反対意見が付されています。「今回の事例では、Aさんは使用者側からの働きかけによって放棄しており、自由意思の立証が十分とはとても言えない」、「相殺と違って、放棄は労働者側が一方的に損をするものであり、全額払いの原則の適用を厳格に解釈すべきである」などとして、破棄差し戻しを主張しました。
いのしし社労士の解説
使い込みを指摘され、競合他社に転職をもくろんだAさんが、自由な意思で退職金をもらう権利を放棄するはずないじゃん!と指摘した色川裁判官に1票!って感じです。小倉電話局事件でもあったように、賃金支払の5原則は厳格な運用を求められています。
今回の事例の場合、できるだけ客観的な事実を把握し、就業規則に基づいて懲戒で対応するか、一度、退職金を支払って、損害賠償で対応することが望ましいように思います。しかし実際はそんな都合よくいくとも限らず、労働者に辛抱強く説明し、理解を求めていくしかないのかも知れません。
関係条文
労働基準法第24条第1項(賃金の支払)、民法第95条(錯誤)、同627条(期間の定めのない雇用の解約の申入れ) など
学説など
放棄の意思表示が、労働者の自由意志に基づくことの慎重な判断を求める厳格適用説が多数意見ですが、賃金債権放棄による債権消滅で、全額払いの原則問題は生じないとする見解もあります。
出典
「別冊ジュリスト労働判例百選第7版」





